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2024/04/20 00:31 |
歴史上の人物をランク付してみる [秦良玉編]
第三回です。テンプレはこちら

【秦良玉(しんりょうぎょく)】

【列伝】
・1574年-1648年。中国・明朝の女将軍。姓は秦で、名は良玉、字は貞素。中国の正史に列伝を有する唯一の女将軍。


長じては、四川・忠州を治めていた馬千乗の妻となる。1599年に楊応龍の乱が起きると、夫とともに従軍。自身も500の兵を指揮し、宴会を偽装して敵軍の夜襲を誘引し、これを撃退。攻勢に転じて七つの砦を落す等、戦功一等とされるも、彼女は功を言わず、恩賞にあずかる事はなかった。夫の馬千乗は後に賄賂を送らなかった為に、宦官の不興を買い、無実の罪で獄死。それ以降は彼女が代わって石砡を統治することになる。

1621年、共に戦った兄が戦死するという痛手を受けつつも、数千の首級を上げ、後金の侵入を防ぐ。朝廷に兄と遺族の保障を願い出て、これを許される。同年、四川で奢崇明が反乱を起こす。この反乱軍に勧誘されるも使者を切り殺すと賊の鎮圧に出陣。周囲の少数民族が懐柔される劣勢の中、重慶を奪還、その功によって息子や甥が官職を賜り、感激した彼女はますます力戦、遂に蜀(四川)の土地を平定することに成功する。

1630年、永平の四城が陥落すると、時の皇帝、崇禎帝から召喚され、これまでの功績を称賛される。(彼女は四城失陥の責任追及だと勘違いしていた) その後も、数多の賊軍を討伐した。

1643年、張献忠が決起、これと戦う。先鋒こそ撃退したが、数的劣勢と友軍の非協力により連敗を喫し、3万の兵を失う。結果、四川は張献忠に支配されてしまう。

1647年、李自成の乱により崇禎帝が死亡、明が滅亡。しかし、彼女は亡命政権である南明の弘光帝に仕え、ここで官爵を得る。その後、領国・忠州に立てこもり敵軍を寄せ付けなかった。清により張献忠が敗死した後、老衰により死去した。

【統率】A
・配下の将兵や領民を統率する分には、まったく問題のないレベル。自身に反感を持つ人間を上手に動かす様な、カリスマあるいは手練手管は持っていない。

【武力】B+
・劣勢をしばしば覆し、数多の賊軍を討った。また、彼女が鍛え上げた山岳兵は、トネリコの槍を装備していた事から、白杆兵と呼ばれておそれられた。

【知力】B+
・人となり胆略智謀ありと評された女傑である。

【政治】B
・農業に造詣が深く、天候不順もなんのその。実質、孤立無援で死ぬまで領国を守り抜いた事は、政治手腕としても一定の評価をできるだろう。とは云え、自分が死んだ後の事まで考えていたかは疑問ではある。

【特殊能力】
・特になし

彼女の戦歴の前半では、功績を正当に評価されず、その上、夫を冤罪で殺されるという不遇の身でありながら、国に忠義を尽くした彼女の内心は、如何なるものだったのでしょうか? 個人的には、朝廷の腐敗に対する憤り以上に、政治の腐敗を大義名分にして、乱暴狼藉を働く賊軍が許せなかったのだろうと思っています。

――国には忠、民には義を。



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2012/05/19 00:29 | Comments(0) | 歴史

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